ここもまた神の教会

チア・シード

コリント一1:1-9

コリント

嵐の前の静けさ。コリント教会宛の手紙がここから始まりますが、この直後から、パウロは猛然と、教会分裂の問題について吠えていきます。パウロの書簡は、概ね、冒頭でどのように書き始めるか決めていたようで、自己を名乗り、送り先を明らかにし、神の祝福を、そしてまた神への賛美を欠かしません。どうぞあなたがたに祝福があるように。パウロのこの姿勢は、私たちも見習いたいところです。どんな非難を相手にぶつけようとしていても、神の名を褒め称えることから始めなければ、ただの肉のなす業となることでしょう。
 
コリントの人々もまた、神に呼び出された者であり、世と分かたれて聖なる存在と見なされて者であるようにされたのです。私たちへもまた、パウロは同じように呼びかけているものと思われます。また、私たちがこの手紙を受け取ったときに、そのように受けなければ、聖書としてここに遺されたパウロの手紙を読む意味がありません。
 
イエス・キリストはその時と同じ主です。私たちと、コリント教会との差は、霊的にはありません。徹底的に、そのような意味で手紙に応えていきたいと思います。主あって、言葉も知識も豊かにされている私たち。だから、どんな有様であっても、パウロは神に感謝するよりほかありません。私たちもキリストの恵みを受けて、何も事欠くことはありません。私たちに、何か足りないものはない、そこから始めたいものです。
 
しかし私たちは、口を開けば不満がこぼれます。御国での地位がどうなのか、それが大臣でなかったらどうしよう、と不安であるためにイエスに問いかけた弟子たちの姿がマルコ伝に、それを母親のせいにしようとした姿がマタイ伝にありましたが、私たちもそのような者であるのかもしれません。
 
キリストが再び現れてくださる。私たちはそれを待ち望んでいます。その時まで何も不足するような目に神は遭わせない、そのようにパウロはコリント教会に告げています。しかしここに何かしら皮肉を見てはいけないでしょうか。決して社交辞令なのではありません。この後、コリント教会はとんでもないは不満と分裂騒ぎに興じていることが暴露されるのです。パウロはよほど頭にきたのか、延々とそのことについて議論し、また何かというとそこに視点を戻します。怒りを堪えて、パウロは美辞麗句を並べているかのようです。
 
それでも、神に対しては、私たちはとにかく褒め称えるよりほかありません。神は、信なる方なのです。「神は真実な方です」とある「真実」は、「真理」ではなく「信」の形容詞形です。へたをすると、神は「信仰」な方です、と訳しかねない場面です。ですからこの語の中に、「仰」を入れすぎないようにしましょう。信頼のおける方、誠実を尽くし、真摯に正義を貫かれる、そんな様子も全部含む、まさに神に相応しい表現であるとも言えるでしょう。
 
私たちは、神に信頼を寄せられています。だから楽園にて、知恵の木のまわりを囲み侵入を防ぐようなことを神はしなかったのでしょう。その信頼に応えられなかったというアダムたちの姿が、実はこの私たち自身です。アダムは過去の人物であるとすると、自分とは無関係になりかねません。あれは私の姿です。しかも、そのような私を、神は信頼してくださっているのです。だから、問題が多いごたごたのコリント教会もまた、「神の教会」とパウロは見ています。すべての教会が、こうして神のものとされるようになるのです。


Takapan
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