ゆるす・ゆるさない

2007年12月


 諺には、しばしば矛盾するものがあります。善は急げと急がせるかと思うと、急がば回れと慎重にさせる、などです。人の知恵は相対的なもので、ケースバイケースで様々あるものですから、その都度自分の行為を正当化させるための背景が欲せられたのかもしれません。

 

 聖書にも、矛盾する命令があると言われることがあります。神が人に命じたものの中には、食い違うものがあるというのです。

 ある人は、それだから聖書は真実ではない、と攻撃しました。しかし、それはあまりに皮相的な見方です。かといって、それを過度に擁護して理屈をこねると、弁神論だと嘲笑されることがあるかもしれません。

 それでも敢えて言うと、神もまた、人を見ていますので、その人にその都度適切な命令を施しているのであるならば、万人に同じ命令を下す必要はない、と思うのですが、どうでしょうか。つまり、命令を変えているのは神のほうではなくて、人間の側の責めである、という考えです。

パンダ

 それはともかく、ここに一つの問題があります。

 私たちは、人をゆるすことについては、福音書は徹底してゆるすしかない、というふうに主張しているように読めるのですが、パウロ書簡を見ると、とてもゆるしているとは思えない表現が多々あることに驚くのです。

 もちろん細かな場合場合によるとは思いますが、無条件でただゆるすという福音書と、ゆるさないでよいとするパウロ書簡との間には、大きな溝があるように見えるのです。

 

 もちろん、福音書にも、イエスの厳しい断罪の言葉が多々あります。足のちりを払えとか、石臼でも付けて海に沈んでおけとか、とんでもない仕打ちがあります。イエスがゆるしを与えているのは、小さな者、貧しい者に対してに限られる、というふうに見ることもできるかもしれません。

 逆にパウロも、自分に対してひどい仕打ちをした者を憎みけなしているというふうには、確かに読めないものです。

 

 しかしながら、神学的な議論はともかくとして、私たちは実際に、どのように許すべきなのでしょうか。また、どのように許してはならないのでしょうか。

 

 罪を憎んで人を憎まず、とも言われます。たしかに私たちは、むやみに人間を相手に憎しみを与えると、何かと聖書に向かえないような精神状態を招いてしまうでしょう。

 教会でも、人の背後にはたらく闇の主、いわゆるサタンとか悪魔とかいわれる存在を悪の対象として捉えるように、知恵が与えられることがあります。これは実に健全な方法だと思います。

 

 そんな深いことではなくて……という意見もおありでしょう。

 そうです。教会に来ている人のために、にこにこと何でもゆるしてあげることが、望ましい、そのように教会では教えられ、また大抵の場合に実践されています。しかし、その陰では、「もう。あの人は……」とどうしてもゆるせないでいる、ということが多いのです。そして、誠実な人は、そういう自分がまた情けなくて、自分は偽善者だ、と落ち込むのです。中には、気がつかずに、自分はとてもよい信仰者だとけろっとしている人もあります。そういう人は、また別の人から、「もう。あの人は……」と見られているものです。

 

 そうした「困ったさん」が、牧師のような存在であると、また信徒の態度には難しさが伴います。

 しょせん、聖書についての知識で立ち向かえば、牧師にかなうわけがないのです。また、牧師には一定の権威がありますから、ともすればそれは神に逆らうような行為である、という意識が、どうしても働いてしまいます。

 牧師も人間にすぎません、とか、牧師と信徒は対等です、とか、教義的にも定められている場合もありますが、それでも、羊飼いなる牧師に羊が文句を言うということ自体が、一種のタブーのようになっている、それが通常です。

パンダ

 逃げ道があります。「祈ります」ということです。

 面と向かって指摘もせず、あからさまに公言もせず、ただ牧師がそれに気づいてくれるように、とひたすら祈るというのです。

 その祈りはきっと神に届くはずですが、それでも、事態が改善しない場合があります。そのように問題のある牧師は、自己認識が甘いわけですから、信徒が自分のために祈っているとなると、ますます期待されていると勘違いして、自分のその問題のある道を突き進むことがあるからです。

 その牧師は推論しています。自分に悪いところがあれば言ってください、といつも口にしている。だが誰もとりたてて言ってくるようなことはない。ということは、自分には悪いところはないのだ、と。

 これでは、信徒のフラストレーションも高まります。そもそもそんなことが平気で言えないという構造を知らないのも問題ですが、実は、信徒としては、遠回しに、つまり婉曲に、牧師をすでに批判しているのです。しかし、問題のある牧師は、そんなことに気づくこともないのです。

パンダ

 ある牧師は、どんなに自分が正しくても、相手を打ちのめすようなことはしてはならない、それは愛ではないのだ、と言っていました。

 それも一つです。しかし、世界は必ずしも善に溢れてはいません。この数年、そして最近、牧師や伝道師という立場の者が、どれほどの「犯罪」で名指しされていることでしょう。信じられないような犯罪が多々報道されています。教団の地区会計信徒の横領も発覚しています。

 いずれも、人々にゆるされてきたがゆえの結末です。

 ハインリッヒの法則がここにも成り立つとすれば、ほかにも、報道されない同様のとんでもない事件が、数多く隠されていると思います。

 

 優しくゆるすのも愛。しかしながら、きっぱりと指摘して批判するのもまた、愛。

 私たちは、聖書と格闘しながら、祈り求めます。何らかの「時」があることを信じて、正面切ってとことん言わなければならない場面も、あってよいのです。

 それが聖書に従うと心に決めた行為であるかぎり、間違っているものは間違っていると、聖書とは違うものは聖書とは違うと、はっきり指摘することは、福音書においてもパウロ書簡においても、共通する精神であるはずなのです。

 その結果、神がたたえられることになるならば、もうそれは止める理由がありません。


Takapan
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