土の器はどんな色?

2002年6月

 クリスチャンという言葉に典型的な形容は、というと、「敬虔な」が有名です。

 はたしてそうかな〜とクリスチャン本人は思っています。とんでもない、と首を横に振るばかりかもしれません。このステレオタイプは、できればやめていただきたい、と思うのですが、しかし、それが励みにならないわけでもありません。

 実際、信仰の上でも生き方の上でも立派だと尊敬するしかないような方がたくさんいるのも、事実です。

 そうした立派な人と、たかぱんのような貧相なクリスチャンとでは、どこが違うのでしょうか。

パンダ


「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
(コリントU4:6-7,新共同訳聖書-日本聖書協会)


 聖書は、信じる者には等しく神の恵みが注がれているようなことを言っています。聖書が知らせる神さまは、ギリシア神話や日本書紀の神々のように、「人間くさい」ことはありません。創造主、全能の主としての神さまは、感情的につまらないえこひいきをするようなことはないのです。

 しかしここに、よく知られた言葉が付け加えられています。

 ――「土の器」です。

 土からひと(アダム)が造られたという設定のせいもありますが、人間が泥臭い土の塊だというのは、たしかに言い得て妙です。

 問題は、その土の器には、たしかに神の恵みが注がれて満たされていくということがある、という理解です。欠けだらけの土の器でしかないようなこの生の人間ですが、神の力を受けて、その恵みをなみなみとたたえることができる。そこに、キリスト教を信じる者が生き生きと社会で活躍できる一つの理由があります。そして、人間自身が特別に偉くなったわけではない、人間が神になるのではない、という断固とした宣言があります。

 土の器の中に、神の宝がたしかにある。そう信じることができるなら、たとえ自分自身はつまらない存在で、欠点だらけの人間であるにしても、怯まずに、前面に出ていくことができるようです。

「こんな自分がこんなことを言える立場ではないけど……」

 いいのです、こんな自分で。神さまは、そのままの土の器でいいとおっしゃっているのですから。

パンダ

 ところが、クリスチャンは、そうした事情が分かっているとして、聖書をまだ知らない人々が見たらどうなるかというと、「なにをそんなに偉そうに言うのかね」と批判されそうです。

 そう。クリスチャンは、威張って見えるかもしれません。ふつうなら、とてもそんな一本気なことを主張できないくせに、いざとなると「日曜日は休ませてください」とか「そんなものを拝むことはできません」とか、訳の分からないことにこだわっていたりしますから。

 イエスさまも、福音書の中でやや似たことがあったように記されていますが、家族に伝道しようとすると、「おまえの素性は知っているぞ。なぜそんなに偉そうなことが言えるのだ」とばかにされかねません。

 神の宝が土の器の中にあるとき、その中にある宝は、ほかの人たちには、見えないのです。

 敬虔なクリスチャン、と称されるにふさわしい人々の場合は、違いました。なるほどそれは神の力かもしれない、と人々に訴えかけるだけのものが十分あったからこそ、尊敬もされるのでしょう。

 どこが違うのでしょう。

 ――それは、「土の器の色」のせいではないかしら。

 土の器は、肌の色。肉の色です。だからこそ、人は土から造られた、という説明がなされたのかもしれません。聖書が「肉」と呼ぶものは、たんなる肉体のことではありません。自分本位な考え方の原理そのものを「肉」と呼んでいます。いわば、精神的なものの中にも「肉」があるのです。

 この「肉」の性質が、器をまさに自分本位な「肉」の色にしか見えないものにしてしまっています。神の力を信じない人々の目には、土の器はどこまでも「肉」の色としてしか捉えられないでいます。

 でも、そんな土の器であっても、信じる者の器の中には、たしかに神の恵み、神の宝が注がれています。それが見えるようになるというのは……。

パンダ

 土の器が、透明になればなるほど、それが可能になるでしょう。

 土の器が、その「肉」の原理、つまり自分が世界の中心にあるという考え方から遠ざかり、自分が自分が、と息巻く「肉」の色を取り去って、透明に近くなっていくとき、中にたたえられた神の宝が、誰の目にも明らかになっていくことでしょう。

 それは、自分を捨てるとか、自我を無理に抑えつける、というふうなことではありません。修行が必要なわけでもありません。

 すでに、キリストの十字架の上に、「おまえの罪はすでに無効となった」と記されています。透明になることは、一途にその事実を受け入れていく過程にあると思われます。

 自分本位の思いが消える現象についても、「自分が」消すというふうな主語のあり方そのものが間違っている……すでに「神が」消していると認めること、それだけでいい。そう思うのです。


Takapan
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