人間には立場というものがある

2002年3月


「そんなに事を荒立てないで。少し我慢をすれば済むことじゃありませんか」

 小説やドラマの、あらゆる場面で使えそうなセリフだと思えませんか。


「そんなこと言われても、あんたにオレの気持ちが分かるか?」

 こういうふうに反論して、困ったなあという雰囲気が場面に流れていく……。


 慰めようとして、言ってくれたに違いないのですが、やはり当人にとっては痛手は痛手、気楽に我慢できるというものではないようです。必ずしも悪い動機から言ったのではないにしろ、本人には伝わりにくいものでしょう。実際、害を受けた人でなければ、分からないことというのがあり、それを言われれば、何も言えなくなることがあります。医療従事者も、その点、限界があるのかもしれません。いえ、教育者にしても……。


 ところが、同じ内容をこう言うと、どうなるでしょう。

「小さいことでガタガタ言うなよ。そっちがちょっと我慢すれば済むことじゃないか」

 おそらく、害を与えた者が、害を被った者に対して言っているのでしょう。迷惑をかけた方が居直ったのでしょうか。これでは、脅しのようにとれますし、場面としては、黒服にサングラスの男が迫ってくる風景でも想像できそうです。

 でも、これは、たいていの場合の、私たち人間の姿なのです。


 自分が迷惑をかけておいて、相手にそのくらい我慢しろと言いたくなる。胸に手を置いて考えると、誰にでもあると思います。実際に言ったことも、多々あることでしょう。

 その立場からは言えないはずのことを、平気で口にして、正論を吐いたような気になっている、という様子です。

 人間がもつ、人を計る尺度、ものさしというものは、自分を計るときにはわずかな目盛りでしか読めず、他人を計るときには大きな目盛りになってしまうのが常です。自分のしたことは小さな、取るに足らない事柄に見えますし、他人が自分に対してしたことは、大事件に思えます。人のした悪は絶対的に悪であり、自分のしたことは過ちであり、ちょっとしたミスにすぎません。

 人間は、自分が立っている場所からしか、ものが見えないのです。

パンダ

 聖書から学ぶことの一つに、自分の立場を相対化させるということがあります。

 互いに人間同士での議論に終始する場合、人は自分を正義だと考えます。自分は完全な悪人だという立場でものを言いきる人はいません。しかし、神という絶対的に正しいお方を前提にものを語る場合、人は自分自身でさえ、過ちを犯す存在として位置づけることができます。われこそは世界の中心だという考えに固執せず、たとえばグリニッジを基準に地球上での位置を示し合うことができるようになるのと同様です。

 神の立場と、自分、あるいは人間の立場とを分けて考える……それが、聖書を読むことによって得られる一つの大きな恵みです。

 自分のものさしによってすべてを判断するから、互いに衝突が起こります。自分にとっては面白いかもしれませんが、他人には不愉快なことを平気でするようになります。メジャーな部分で楽しむことはできますが、マイナーな人々を虐げることになり、さらに具合の悪いことに、しばしばそのことにさえ気づかないでいます。

パンダ

 人は、自分の立場から言えることは何か、を知る必要があります。

 一つの命題としては真理のように聞こえることも、それを特定の立場からは言ってはいけない、それなのに平気でこれが真理だと語る輩が、いかに多いことか!

 古代ギリシアでも、雄弁なエリートたちだった「ソフィスト」は、ソクラテスによって批判されました。ソクラテス自身は死刑判決の後、毒杯をあおいで命を落としましたが、ソフィストたちの名はその後、詭弁という不名誉な名称となって歴史に残ることになりました。

 政治の世界で生き残るには、詭弁も必要かもしれません。馬鹿正直で国が前進できるかどうかは疑問です。しかしそれは、政治というゲーム(不謹慎に聞こえたら申し訳ありません。ルールに基づいて展開していく仕組みのことであり、遊びという意味で言っているのではありません)での作戦です。個人個人の生き方が、その政治のやり方を範として、それでよいのかどうか。


 パフォーマンスとして、演技として、政治家が演じるその方法を、市民が真似するという図式は、西欧諸国には顕著なようです。自分が悪いと口に出したら交渉に負ける、どんなことがあっても相手が悪いで通すのだ……そう根付いた考えのもとに、舌論を展開するのが、実に一般市民のやり方だといいます。

 日本人も、それを真似するようになってきました。

「すみません」 「申し訳ありません」

 こんな言葉が、以前に比べて紛れもなく少なくなりました。若い人たちが言わないもんね……ではありません。年輩の方々から、なくなったのです。若い人たちは、案外口にします。やはり、立場の低い者として、社会で先頭に立つ自信がない面があるせいか、突っ張ってはみるにしても、奥には弱いものがあるように感じられます。

 困るのが、社会で大きな顔をするおとなが、謝ることからずんずん遠ざかっていくことです。電車の中で体験的に感じるマナーは、おとなたちのほうが問題です。歩きながらタバコを吸うのもおとなたちが中心であり、裁判所や警察、県庁とその周辺が、とくにそのワーストではなかろうかと思います。公園の花を折ったり、実を盗んだりするのは、しばしば老域に入られた方々です。皆、自分が悪いことをしているという自覚が、おそらくありません。

パンダ

 聖書は、徹底的に人間の上に神が立つという設定のもとに記されています。人間を絶対的に超えたところに、神が位置していると認識されています。聖書を信じる者は、神がこのように自分のことをご覧になっている、という視点を学習します。

 欧米人を弁護するのとは違いますが、この図式に基づく文化の中で、精一杯自分を他人から守るために、けっして安易に謝らず、相手を攻撃しようとするのは、まだいくらか理解ができるのです。聖書は、たんにお人好しを推奨する書物ではないからです。

 欧米にあるのは、自分の属する集団を隠れ蓑にして立っているような生き方ではありません。個人として地上に立ち、自分を超えた神がすべてを支配している世界にぽつんと立って、一人であらゆる地上での寄留的生活の問題に立ち向かわなければならないと自覚している人間の、生き方なのです。

パンダ


Takapan
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