救いと弱さ

2001年10月

 キリスト教には「救い」があります。

 宗教には、ふつうそれがあると思います。ても最近は、救いを掲げることなく、宗教と称したり、宗教のような振る舞いをしているものもあります。「救い」を正面から語るなんて、ダサイのでしょうか。

 貧困や病気こそ、宗教の領域だ、と信じている人がいます。宗教なんて、弱い人間のすることだ、と豪語する人がいます。

 たかぱんは、それを否定しません。いえ、まさにその通りだ、と思います。

 問題は、自分が貧困で、病気で、弱い存在である、ことを知っているかどうか、にあるだけだと思うのです。

パンダ

 イエスという人がいました。二千年ほど前に、今のイスラエルの地方に生まれました。その記録が、その後の人類の歴史に大きな影響を与え続けました。それはなぜか……その答えは、受け止めた各自が考えればよいでしょう。とにかく、その記録が、ここに残っています。『新約聖書』という本です。


     イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、
     御国の福音を宣べ伝え、
     ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
     また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、
     打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイによる福音書9:35-36)     

 イエスの近くには、いつも人々がぞろぞろとついてきました。それも、この世では何の役にも立たないかのように見える、みじめな立場の人々が。それをすべて受け入れただけでも、イエスは並の人ではありませんでした。

 誰かが言ったように、たとえイエスがいわゆる奇蹟など起こすことができなかったとしても、こうした行為だけで、人々に慕われる十分な理由があったことでしょう。


     ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、
     イエスの弟子たちに言った。
     「なぜ、あなたたちは、
     徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
     イエスはお答えになった。
     「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
     わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
     罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5:30-31)

 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たち、つまりイスラエルにおいて宗教的・政治的・知識的に権威をもっているエリートたちが、人気者イエスのところに来て、イエスの弟子たちに、「なぜ、あなたたちは……」と質問します。

 しかしこの質問に答えたのは、弟子ではなく、イエス自身でした。あるいは、弟子たちはどう答えてよいか分からず、しどろもどろしていたのかもしれません。というのも、徴税人や貧乏人、売春婦や隔離された病人などが、イエスを中心に宴会を始めていたのですが、それは、とても汚らわしい光景であり、弟子たちもそのことは心の中で思わないではいられなかったからです。

 イエスは、自分の使命を、健康な人ではなく病人をこそ世話する医者にたとえました。

 なんと痛烈な皮肉! 健康な人、正しい人ですって! 質問をしたエリートたちは、りっぱな聖人君子たちばかりだよ、とでも言わんばかりではありませんか。

 そのことが、彼らに伝わったのか、伝わらなかったのか……。

パンダ

 よく、「教会に通うのは、心のきれいな人たちばかりだ。自分のような者が行くところではない」という声があります。

 他方、「教会にいるのは、ただの人間。どろどろしていて、争いごとが絶えないじゃないか」という声も聞きます。

 どちらも、ある意味で正しいし、ある意味ではどちらもまったく違う、と思います。

 教会に通うのは、自分の心の醜さを痛感している人です。

 教会にいるのは、人間だけではなく、神もまた、そこにいます。

 キリスト教の世界が、過去に多くの過ちを犯してきたことは、否定できません。旧約聖書自体が、人間の罪と汚れを描き続けてきたのと同様に、紀元後のヨーロッパの歴史もまた、醜い人間の有様であったかもしれません。けれども、それと同時に、そこには神の恵みもありました。神の導きがあったからこそ、今日の時代になった、という視点があっても、かまわないのではないでしょうか。

 もちろんそれゆえに、無反省でいいという意味ではありませんが。

パンダ

 イスラエルの英雄ダビデが、当時の王サウルに国を追い出されて、さまよわなければならなかったときの様子に、このようなことが記されています。


     困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆
     彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった。(サムエル記上22:2)

 ダビデは、イエスの姿を部分的に映し出していると言われます。

 ダビデの周りには、世にはじき出された者が集まりました。ダビデはそれを受け入れ、アウトローの連中の頭となったというのです。

 世の波にうまく乗り、あるいは乗ろうともがくばかりの人々には理解できない、あるいは理解しようともしないような、つらい立場の人たちの友となったのは、まさにダビデもイエスも同じでした。

 神は、自分の弱さを知る人、しかも絶望の淵ばかり見つめず、神に希望を見いだす人(それができるためには、十字架が必要だというのが、新約聖書のメッセージです)に対して、「おまえはたしかに救われた」と声をかけてくださる……たかぱんは、そんなふうに思っています。

パンダ


Takapan
聖書ウォッチングにもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります






 
inserted by FC2 system