子どもたちに教えられて

2004年2月

 イエスが湖上を歩くという話があります。

 教会学校で、その話が取り上げられました。

 教会の中には、牧師が毎週礼拝説教のために、個人的に聖書を開き、自由に選ぶというところもあります。また、牧師が講解説教として、毎週少しずつを選ぶにしても、長期に渡って連続した箇所やテーマで聖書を解説していく場合もあります。共同で製作した聖書学習雑誌のカリキュラムに基づいてその箇所を取り上げていくという教会もあるわけです。けれども、えてして、子どもたちのための教会学校の教育カリキュラムは、この教案誌に則ってするというところが多いようです。そこまで牧師一人が決めるのは大変だし、担当教師が決めるというのも負担が大きいからのようです。

 それで、この湖上を歩くという回も、教案誌の掲げる箇所ではありました。

 しかし、だからといって、教案誌通りにすべてを話すのは却って難しいものです。そこにいる子どもたちに対するライブでもありますから、目の前の子どもたちに合う話し方や内容を考えなければなりません。

 私も準備をしました。とくに最近は、「CSワーク」なるものを製作し、子どもたちにその日の箇所についていろいろ調べたり、考えたりしてもらおうとしています。逆に言うと、そのために私も深い学びをしなければなりません。

 すると、勉強になります。

パンダ

 話はこうでした。

 五千人にパンを与えた後、イエスは、弟子たちをむりやりに舟に乗せて、向こう岸へ渡れと命じます。群衆を解散させた後、自分はしばらく一人になり、神に祈るのです。

 湖の中程にまで出てきた弟子たちは、そのうち逆風と高波に悩まされます。舟は進まず、安全さえ覚束なくなります。夜明け近く、湖上を歩いて近づいてくる人影を見ました。おばけだと怖がる弟子たちに、その人、つまりイエスが声をかけます。安心しなさい、わたしだ、恐れることはない、と。すると、弟子たちの中でもリーダー格のペトロが、イエスを信じますという気持ちで、自分にも湖の上を歩かせて欲しいと願います。イエスに呼ばれて水に立つと……ちゃんと立てました。しかしペトロは、ふと強い風に気がつくと、怖がったため、沈みかけてしまいました。イエスはペトロを助け、二人して舟に乗り込みました。すると、風が止んだのです。弟子たちは皆、イエスのことを、あなたは神の子だとほめたたえました。

パンダ

 子どもたちに、私は幾つかの質問を用意しました。

 そのうち、調べる作業は、上の話のイエスの言葉「安心しなさい」が、マタイ9:2とヨハネ16:33に別の表現で出ているから調べよ、というものでした。勇気を出せとか元気を出せとか書いてあるので、それを写せばよいと思います。もう一つ調べる作業は、「わたしだ」が出エジプト記3:14にあるのでメモせよというものでした。「わたしはある」と神が宣言している箇所です。

 こうして、聖書というものは、その箇所だけでお話が完成しているだけのものとは違い、さまざまな箇所が連結し合い、いわば有機的につながって構成されていることを体得しようとしました。とくに「わたしはある」というのは、神の呼称です。イエスが十字架にかけられる決め手となってしまった冒涜の罪は、自分を神と同等に置いた言い方をしたからでした。しかし、弟子たちの前ではその言い方を、こうして早々にしてしまっていたのです。

 また、「本当に、あなたは神の子です」と弟子たちが告げた最後の場面に関しては、この言葉が、十字架のシーンで登場した言葉とつながりがあることを教えました。つまり、百人隊長が、イエスの死に様を見て、本当にこの人は神の子だったと呟くのです。湖の上を歩く物語は、イエスが神であるという「わたしはある」を語りつつ、贖いの死、十字架刑をも描いていたことになります。この物語は、十字架による救いを示していると読めるわけです。この、「十字架」という言葉を穴埋めで説明の中に書き入れる問題を作っておきました。そしてそこに同時に、風とはこの世のきびしいしうちや悪魔の抵抗を意味しているのだと、こっそり解説しておいたのでした。

 そこで、他の質問を並べます。

 イエスがむりやり弟子たちを、逆風吹く湖の中へ舟出させたのは何故か。

 弟子たちはなぜ、イエスを見て幽霊だとしか言えなかったのか。それは私たちの姿と同じであることを基に考えよ。

 ペトロが沈みかけたのは何故か。

 ペトロとイエスとが舟に乗りこむと、風は静まったがそれは何故か。

パンダ

 優等生的なJr.2は、問題の意図を見破り、信仰を試すために舟出させたとか、人間に信仰が足りないということを書いていました。それはそれでいいと思います。しかし、他の子は悩んでいました。どう書いてよいか分からないのです。無理もないことです。大人であっても難しいと思います。しかし、空欄で放り出すかという予想に反して、皆考え込みつつ、努力して何か書こうとしていました。一つ一つの考えは尊いものだから、私は正解と不正解とがあるわけではない、と宣言しておきましたが、それに励まされたのでしょうか。いえ、たぶん一人一人、神さまからの問いかけだとそれらを捉えて、真剣に向かい合ったのだと思います。

 二年生の女の子が、最後まで悩んでいました。二年生には、どだい無理な質問だったはずですから、私は気の毒になりました。いろいろヒントめいたものを横から告げました。風とは、私たちあるいは教会に対する、世の中のつらいしうち、迫害などを意味します。ですから、最後に風が静まったということは、イエスさまが共にいてくださるときに、そうした世間の荒波に負けない平安が与えられ、また実際に勇気をもって歩み出して行ける、という異を意味しています。それが分かってもらえるような口出しを、私はしていました。でも彼女は、さらに悩んだ末に、左手で隠すようにしながら何か書き込みました。

 それを見せてくれました。

 私は愕然としました。私の予想しなかった答えが、書いてあったのです。

 二人が舟に乗りこむと風は静まったがそれは何故か。彼女は、「イエスさまがおいのりをしたから」と書いていました。

 たしかに、弟子たちを舟で送り出すときに、イエスは一人になって祈っています。そのせいで、ついにイエスが舟に乗ったときに、風は静まったというのです。

 もしかすると、イエスをただの人間の一人のように、自分がイエスだったら、という理解で、そう答えたのかもしれません。しかし、私は学びました。実際、彼女が答えた通りでよいと思うのです。たんにイエスが共にいたから安泰だ、というのは、なんと安易な解答でしょう。イエスはこれらのこと、つまり弟子たちを試すようなことをする前に、熱心に祈っていました。その祈りがなければ、こうした救いはなかったでしょう。彼女は、そこをちゃんと見ていました。

 十字架のイエスにも、祈りがありました。ゲッセマネでの祈りは言うまでもなく、十字架の上でも、いくつもの祈りを捧げました。それがなければ、全人類を罪から救うという大事業は生まれなかったのです。

パンダ

 これだから、教会学校の教師はやめられません。もはや教師と生徒などという一方的な関係ではありません。神の前に、皆同じなのだということ、いやむしろ、固定観念に囚われている教師などより、子どもたちのほうが真実の中を生きて見つめているということさえ、少なくありません。

 また張り切って、来週の準備をしましょう。それも、また子どもたちから学べるのではないか、と期待しながら。


Takapan
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