殺人犯モーセ

2002年4月


 モーセは、ヘブライ人の両親のもとに命を得ました。しかし、増えすぎた異国人は、エジプト王の目にだんだん疎ましくなり、ついには寄留民であるヘブライ人を減らすために、生まれ落ちた男の子はすべて殺すよう、王は命令を下しました。しかし、殺されるのが忍びなく川にわが子を流したヘブライ人の両親の祈りが届いたのか、赤ん坊はエジプト王女に拾われます。その様子を見ていたモーセの姉が、よい乳母がいると紹介して、モーセの母親を呼んでくるわけです。

 モーセは、エジプトの王家の家族のごとく育てられました。しかし、乳母である母親がよく教え込んだのでしょう。自分がヘブライ人の出であることを心に抱いていました。

 成人したモーセは、ヘブライ人が奴隷として働かされているのを見ます。それは、自分と同じ民族、いわば同胞。エジプト人が鞭で同胞を打ちすえているのを目の当たりにしたモーセは、そのエジプト人を密かに殺害するのです。


モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、
そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。
(出エジプト記2:12-新共同訳聖書,日本聖書協会)

 モーセは、完全犯罪だと思っていました。しかし、翌日ヘブライ人どうしがケンカしているのを見て、モーセが口出しに行くと、なんとそのヘブライ人は、余計なお世話だ、と言い、エジプト人のように俺も殺すつもりか、と言いました。

 自分の殺人現場が知られている。殺人者として、自分は王の裁きを受けなければならなくなる。そう思ったモーセは、ミディアン地方に逃れ、そこで女たちをいじめていた羊飼いを追い払い、その娘を妻にします。

パンダ

 モーセは、言うまでもなく、十戒を授けられ、聖書の根幹である律法の部分を神から聴いて著作した人です。

 しかし、そのモーセは、なんと人生の出発において、殺人を犯しているではありませんか。モーセは、殺人犯であり、その罪を償ってもおらず、ただ逃亡しただけの人間だったのです。

 殺すなかれ、と命じる十戒を与えられ、律法の中でも殺人はいけない、と後に繰り返すモーセ本人が、殺人犯だったとは……。

パンダ

「いや、殺すなという掟は、同胞であるヘブライ人を殺してはならないという意味なのであって、敵については殺して構わないのだ」という考えがあります。「だからモーセは、律法を破っているわけではない。でなければ、そもそも出エジプトを敢行することさえできなかったではないか。エジプトの初子を殺して初めてエジプトを出たのだ。そして約束の地カナンにまで来るのも、様々な敵と戦い、敵を殺してきて初めて可能になったのだ。殺してはならないなどと甘いヒューマニズムでやっていては、自分が生き延びることさえ不可能なのだ」

 説得力のある意見です。そして、この意見はモーセを律法からも弁護しています。律法に抵触しているわけではない、と。

パンダ

 ここでは、モーセの気持ちを自由に空想してみることにします。


 彼は、王室に生まれたとは言っても、周りの者が自分を見る目に異質なものを感じていました。その母親があるとき、真実を告げます。おまえはヘブライの生まれなのだ、と。ヘブライとは何ですか、お母さん。それは、誇り高い、全能の神、主を仰ぐ、主に愛された選民なのだよ。昔飢饉でこのエジプトに移ったのだが、もともとは東の土地、世界の中心に住んでいたのだよ。このエジプトでは、今虐げられているが、きっと主は、ヘブライの民を顧みて、いつかあの故郷に戻るときがくるだろう。モーセ、おまえはヘブライの中でも強い運をもって生まれてきた、だから、きっと主は、おまえに何か役割を与えられていると思う。よいか、おまえは何かそのために、命を救われてこの王室の一員となっているに違いないのだよ。

 たんなるヘブライ人ではない。その中でも、ヘブライ民族を動かす力が自分には与えられている。モーセは、自分に与えられた使命を、大志を抱いていたことだと思います。

 そのモーセが、いざ一人前の人間として世の中に出たところ、真っ先に見たものは、ヘブライ人がエジプト人に痛めつけられている姿でした。彼の中の正義感、使命感がむくむくとわき起こります。ぼくは神に選ばれたヘブライ人の、さらに選ばれた人間だ。ヘブライ人のために何かをしたい。だがなぜ故なくあのようにヘブライ人をエジプト人はいじめるのか。許せない。

 ついに、人目につかない場所で、彼は憎きエジプト人を殺害しました。

 彼は、一人心の中では、ヘブライ人のヒーローでした。自分はヘブライ人のために、正義を行った。ヘブライ人を救う、最初の仕事を成し遂げたのだ……。


 翌日モーセは、ケンカしていたヘブライ人を見て、自分はおまえたちのために憎いエジプト人を殺した英雄だという心を秘めながら、ケンカなどしている場合ではない、本当の敵はあのエジプト人なのだから、と諫めようとしました。けれども当のヘブライ人から見れば、なにを若僧が、という気持ちで、俺たちも殺すつもりか、と告げます。別に、エジプト人一人くらい殺したところで事態は何も変わらないことを、知っているからです。

 若いモーセは、自分の熱い思いと現実とがかけ離れていることを悟りました。

 それどころか、自分の身の危険を感じました。身を寄せる国エジプトにおいて殺人をしてしまい、また、民族の血が流れるヘブライの人間にも受け入れてもらえません。モーセは、居場所をなくしたのです。エジプトにも、ヘブライにもいることができず、モーセは荒れ野へ逃れます。荒れ野のミディアン人は、さすらう民でもあり、居場所のなくなったモーセにとって恰好の逃げ場です。

 でも、これからどうしよう。呆然と、水を求めて井戸に来ているとき、水を汲みに来た女たちに、羊飼いの男たちが意地悪をしました。ここでもモーセは、持ち前の正義感を発揮します。というより、まだ自分がリーダー的存在であるとでも思っていたのでしょうか。いえ、もしかするとモーセは、自分の立つところをなくして、もうただ何のアイデンティティもないただの一人の人間として、素直に、その意地悪が許せなかったのかもしれません。

 無私の気持ちから、女たちを助けた。そのことが、女たちの父親に受け入れられ、その一人の婿に迎えられた……のではないでしょうか。

パンダ

 モーセの、いわば思い上がりから、殺人が行われました。

 神は、よくもこんな男を、後のエジプト脱出のリーダーとして選んだものです。しかし、この過ちは、モーセを変えました。いえ、このことがあったからこそ、モーセは、イスラエルの民のリーダーになることができたのです。

 しかも、その選びは彼の出生のときにすでになされていました。水の中から救われたことで、すでに彼が神に選ばれていたことが分かります。

 思い上がりを痛烈に自覚し、また、最大の罪、殺人まで犯したことにより、モーセは、罪ある人間を導くリーダーとなりえた、と考えられます。挫折を知らないエリートによってではなく、とことん堕ちるところまで堕ちた人間だからこそ、何十万という民の痛みや苦しみを思いやって四十年の長きにわたり、導くことができました。

 もちろんイエス・キリストは、一点の曇りもない罪なきお方ではありましたが、人間の立場にまで降りて肉となったことにより、人間の罪や苦しみを引き受けることを成し遂げてくださいましたが、モーセもここではその型が類似しています。

パンダ

 過ちを犯さない人間はいません。その弱さや罪を抱えたまま、神はすでに選んだその人物を、神のしもべとして相応しい役割を果たすように助け起こし、導いてくださるのです。



Takapan
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