むなしい聖書

2002年1月

 むなしい、という言葉ほど、聖書に似合わない言葉はないかもしれません。聖書は、神の言葉があふれていて、人の心を喜ばせ、清くするものだ、とするならば。

 そもそも「聖」なる書というネーミングがまずいのです。もともとは「本」という程度の意味しかもたない言葉が、中国の漢字文化圏に伝わったとき、そこに「聖」が付けられました。いえ、英語などでも"Holy"が付けられますから、古今東西同じ発想です。もちろんその気持ちは分かります。神の言葉ですから、清いのです。「きよい」は「聖い」とも書きます。

 聖書は、人間の罪の姿を、これでもか、と刻み込んだ書です。初めの三ページ目から、いきなり人間は汚いところを見せ、以後最後の寸前まで、人間の愚かな様子が書き続けられています。

 その意味だけでも、聖書は「むなしい」人間を書いている、とも言うことができそうです。

 が……。


     なんという空しさ
     なんという空しさ、すべては空しい。
          (コヘレトの言葉1:2,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 いきなり、こんな言葉とともに始まる、それが「コヘレトの言葉」。ほかの聖書では「伝道者の書」などという題になっています。

 しかも、さまざまな人間の生活を描ききって後、最後に著者はまた、結論の前にこうため息をつくのです。


     なんと空しいことか、とコヘレトは言う。
     すべては空しい、と。(コヘレトの言葉12:8)

 悲しくなるほどに、むなしくなる本です。一度読んでみませんか。

「むなしい気持ちにさせる気か?」と立腹されるかもしれません。でも、なかなか味わいがあるのです。たかぱんなんか、才能もないくせに哲学なんか勉強して、それでつくづく感じたことと、この本の中とに、ずいぶん共通点があったのですから。


     かつてあったことは、これからもあり
     かつて起こったことは、これからも起こる。
     太陽の下、新しいものは何ひとつない。(コヘレトの言葉1:9)

 コヘレトは、この世にあらん限りの贅沢ができる立場にいるようです。さんざん快楽も追求した後、それらがむなしいと呟きます。また、すばらしい知恵も持ち合わせていたようで、あらゆる観察をし、思索をします。人生で何が大切なのか、人生の目的は何か、と。

 しかし、一つの結論に至ります。どんなに労苦をしたところで、はたまた贅沢をしてみたところで、人はやがて死ぬ。多少知恵があったとしても、バカな生き方をしたとしても、行き着くところは皆同じ。何かを求めようとしても、風を追うようなものだ、というのです。


     見よ、どれも空しく
     風を追うようなことであった。
     太陽の下に、益となるものは何もない。(コヘレトの言葉2:11)

 コヘレトと自称するこの著者が誰であるのか、どんな立場にあるのかは、昔からいろいろ研究されていますが、もちろん定かではありません。ソロモンになぞらえているようにも見えることから、王族の一人ではないかとか、かなりの知恵のある学者だろうとか、あるいは、そうと見せかけて実はただの庶民に過ぎない人間が、そうした立場にあるかのごとくに装って、贅沢三昧の人間を皮肉って記しているのではないかとか、解釈もさまざまです。

 しかしとにかく、その眼差しは冷静です。哲学のような試みを尽くした後、コヘレトは人間が極めることのできない部分を指摘します。


     短く空しい人生の日々を影のように過ごす人間にとって、
     幸福とは何かを誰が知ろう。
     人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、
     太陽の下にはいない。(コヘレトの言葉6:12)

     ただし見よ、見いだしたことがある。
     神は人間をまっすぐに造られたが
     人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。
                (コヘレトの言葉7:29)

 コヘレトは、「神」という言葉を使いますが、必ずしもヘブライ文化の神と一致しないとも言われています。どうやら、ギリシア文化の影響を受けた、やはり哲学肌の知恵ある人間が綴った文章ではないか、と考えられているようです。たしかに、聖書の中では異質です。聖書に含んでよいものかどうか、議論があったとも伝えられています。けれども、そこにはやはり何か聖書の一部として存在価値のあることがあったのでしょう、今日まで聖書の一部として残ることとなりました。

 後半、「神」を持ち出しながらも、コヘレトの口調は変わらずむなしさのメロディにのってうたわれていきます。ただ、「空しい」という言葉そのものは、最初ほど並びはしません。すべての事象が神の手の中に収められていることを強調していくのです。


     すべてに耳を傾けて得た結論。
     「神を畏れ、その戒めを守れ。」
     これこそ、人間のすべて。
     神は、善をも悪をも
     一切の業を、隠れたこともすべて
     裁きの座に引き出されるであろう。(コヘレトの言葉12:13-14)

 さて、このやるせない「むなしさ」は、どうしたらいいのでしょう。最後に神に従えという命令だと受け止めたとしても、生きることにむなしさが伴わないでしょうか。

 この「コヘレトの言葉」には、むなしいことが、「風」にたとえられていました。この「風」という言葉は、ヘブライ語では特徴のある大切な言葉です。それは「息」とも訳されるものであり、さらに「霊」という意味でも使われる言葉です。神の霊というのは、神の息でもあり、神の風でもあるのです。

 コヘレトの言葉において、むなしさは風のようなものと記されていました。また、ここには挙げられませんでしたが、神の霊について、人の霊についても言及がありました。風も息も、そして霊も、空虚なところに見えない形で存在します。空の中を駆けめぐる風、その空という文字からできた「空しさ」の言葉は、ただ空虚なわけではなく、そこに見えない形で満ちている、神の霊、神の息を感じさせないでしょうか。

 ただ私たちだけが、気がつきにくいというだけで……。


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