想像力と信じること

2004年1月

 日本銀行見学のお土産に渡されたパンフレットを入れるため、日本銀行の封筒をもらったところ、その封筒にチャップリンの絵がついていて、吹き出しにこう書いてあった。「人生に必要なものは勇気と想像力。そして少々のお金だ」

 こんな内容から始まる文章が、国語の問題に出ていました。

 この後筆者は、このチャップリンが、『独裁者』においてヒトラーを描いた勇気を指摘して、次のように記しています。

 チャップリンが、貧しいときにさえ、自分の才能や未来を信じることができたのはなぜでしょう。
 名声を得たのち、世論を敵にまわしても、「平和を守る」という信念をつらぬこうとした勇気をあたえたのは、何なのでしょう。
 それは「想像力」だと思います。目には見えないものを見る力。まだ聞こえてこないものを聞きとる力。それが想像力です。

 さすがにここに「信仰」という言葉は出てきませんが、聖書が描く「信仰」の一つの姿は、まさにこの想像力の説明に違いありません。

 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(第二コリント4:18)

 見えないものを見るなど、できるわけがない、と思う人がいるかもしれません。でもそれは、特別なことではありません。私たちは日常的に、それを行っています。

 私たちは今日働けば、翌月に給料をもらえると信じて働いています。それはまだ目に見えてはいません。自動ドアに立てばドアが開くと信じて歩き進みます。まだはっきりとそれが見えないのですから、もしも開かなければドンとドアにぶつかってしまいます。きつい冗談も、それを聞いた人は笑って許してくれるだろうと信じて言っています。まだ実際に許してくれたわけではない段階で。

 私たちの生活は、まだ見えていないものを見ているかのように行動しないでは、やっていられないのです。そしてそれは、たしかに何かを信じていることと等値なのです。

 聞こえないものについても同様でしょう。しばしば、神の声を聞いたなどという知らせに、そんなのは幻聴に過ぎない、という批判がなされます。しかし、それならすべての行動規範はほんとうに自分の中から、自分をオリジナルとして出てくるものなのでしょうか。ほかの声を聞かずに自分本位でしか行動しないとすれば、それはむしろ恐ろしいことです。現に聞いていない別の声は、私たちの心にたしかに浮かんできているはずなのです。

パンダ

 ところが、実際に目の前に見えているはずなのに、心を遮断して、見ようともしないということがあります。網膜に映っていることは間違いないのですが、意識されないのです。

 特別なことではありません。私などは、車を運転していても、信号やガソリンスタンド、あるいは全体的な雰囲気を見て、曲がる場所を確認しているようですが、「ケーキ屋さんの角を曲がったところですね」と言われても、「そんなのありましたか」と思わず返事してしまいます。再びそこに言ってみると、たしかにケーキ屋がありました。目に映っていないはずはないのですが、まったく記憶にありませんでした。洋服屋もたぶん日頃意識に上りません。関心がないものは見えていないのです。

 人の姿が見えていない例として、電車の中で化粧をする若い女性のことが時々取り上げられますが、彼女たちも、周りの人間が見えていないのでしょう。意地悪な言い方をすれば、周りの存在を人間だなどとは考えておらず、よく舞台に上がる人が自分に言い聞かせるように、あれはカボチャかナスなのだ、というところなのでしょうか。

 電車の中は、人を人とも思わない姿の宝庫です。よくもこんなに、他人を蔑ろにできるのかと不思議に思います。一時、他人に干渉しないという無関心さが冷たいのではないかと盛んに論じられたことがありますが、もはやそういう段階ではありません。干渉しないというのは、まだ人を人として捉えています。しかし今のように、他人に害を与えておきながら、なんの自覚もないという状況は、かなり末期的です。

 いえ、目の前でないにしても、たとえば海外で戦渦の中苦しむ人々の報道を聞きながら、そこに目をつぶっているとすれば、どうでしょう。心優しい人は、自分の使う割り箸のために、東南アジアで災いに遭う人がいることに胸を痛めます。人間は、想像力を豊かにもつこともできれば、まったく欠落させることもできる、不思議な存在のようです。

パンダ

 誰もが、自分は必要な想像力くらいもっている、といいます。その上で、人間の目から見えるものを真理と考えてやみません。神などいないと口にして、自分は自分を信じて生きていけばいい、とヒーローみたいな言葉を語ってみます。

 我が家の赤ちゃんは、なんとか今つかまり立ちをしようとしています。もう少ししっかり這ってほしいのですが、這うのは下手で、好みません。左足を立てたまま這うので、不格好です。それよりも、兄ちゃんたちをはじめ家族が皆立って歩いているのを見て、なんとか自分もできるはずだと考えているようにさえ見えます。

 テーブルに、ずいぶん遠方から手をさしのべて、つかまって立とうとします。バランスを崩して、そのまま前のめりに倒れることもあります。また、ようやく立ち上がっても、次の行動がとれずにまたバランスを崩して横に転ぶことがあります。頭が重いので、頭から落ちて、度々ゴンと大きな音を立てて倒れ、ワァワァ泣いてしまいます。大丈夫かと心配しますが、すぐに泣いている限り、大事には至っていないようで、一安心。それでも、一日に何度もそうすると、もうやめておけばよいのに、と端から見ると思えるのですが、本人は挑戦をやめません。そのうちだんだん上手になっていくのでしょうが、なんでもっと安全な方法に気づかないのかな、とハラハラして見ています。

 本人には見えていないものがあるのです。大人から見れば、ああすればいいのに、と思えても。子どもの行動、若者の行動にも、そんなふうな狭い視野で考えていると失敗するのに、と老婆心的に思えてしまうことが、ないでしょうか。誰もが経験したようなことなのですが、幼い当時はそれが精一杯の知恵であり、視界であったのです。

 人間が見えているものというのは、その程度のものです。地を這いずり回ることしかできない人間の視野など限られているもの。人間の知恵など、全能には程遠いもののはずです。神さまから見たら、なんてバカなことを、ということばかりではないでしょうか。

 私は、人間の中にある美しいものや、立派な知恵を軽んずるつもりはありません。それでも、日常の中に、何とバカなこと、ちょっと考えてみれば分かりそうなこと、どうしてもやめられないこと、そんな愚かなことが、いくらでも転がっているものだ、とおそらく誰でも気づくことだろうと思います。

パンダ

 そんな人間の限界を認めることにも、少しの勇気が必要です。突っ張っていないで、その先のことを心配しないで、まずは自分というものは大したことはないな、と認める勇気をもったほうが、きっと安心できるだろうと思います。

 そうして、自分の立場から見える視野に拘泥しないで、もっと大きな視野があるのではないか、という、少しの想像力をもつことができたら、いいですね。

 たぶん、見えないものを見ること、聞こえないものを聞くことは、現に私たちがやっていること。それは、毎日私たちがすでに「信じる」ことを実践していることを証明します。「信じる」ことは、何も特別なことではないのです。


Takapan
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