これは、2001年7月21日、教会で行われた夏期キャンプの早天集会において、たかぱんが担当して語った、聖書からのメッセージです。キャンプのテーマは「光をさがそう」。何十人もの参加者が、前日から、光をさがすことを学んできました。まだ眠い目をこすりながら、多くの人々が聞いてくれました。



光をさがすために

2001年7月


起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
(イザヤ書60.1-2,新共同訳聖書-日本聖書協会)



1 光はつねに、そこにある

 ここに赤い花があります……さて、この言い方は、科学的に正しいでしょうか。この花そのものが赤という性質をもっているのかというと、それは疑問です。この花が、赤い波長の光を反射するため、その波長の光を受けた人が、それを赤と感覚するのです。
 物が見えるということは、光を感じることにほかなりません。物そのものが目の中に飛び込んでくるわけではなく、物に当たって反射した光が、視神経を刺激して、そうした色として感じているのです。
 そのため、動物たちは、人間とまったく違う色の世界を見ているのではないか、と言われています。ただ、これはたいへん確かめにくい実験ですので、行動のはっきりした昆虫についての研究が、わりと進んでいるようです。
 たとえば、モンシロチョウ。チョウは、人よりも、波長の短い光、つまり紫外線をよく識別することができることが分かっています。ノーベル賞を受賞したフォン・フリッシュがミツバチで見つけ、後に多くの昆虫もそうであることが確かめられました。紫外線の映る特殊なカメラで撮影してみると、花の中央のほうは、紫外線を吸収して、黒っぽく見えます。そこに行けば、蜜にありつけるわけです。
 また、モンシロチョウのオスがメスを探し出すときも、面白いことが分かりました。人の目で見れば、慣れた人なら、表が少し灰色がかっているのがメスだと分かり、オスとメスの区別ができますが、この紫外線の反射を調べてみると、オスの翅は、表も裏もほとんど黒に見える灰色をしており、メスは相変わらず白っぽく見えます。チョウの目で見れば、一目で、オスかメスかの区別がつくのです。
 アゲハチョウの場合は、たんに紫外線での色具合というわけにはいきませんが、黒と黄色の縞模様に気づいて、同じ種のメスだと気づくようになっているようです。
 人間の場合は、波長が380nmの青紫から780nmの赤までが見えるとされ、これを可視光線といいます。その物体が、どの波長の光を反射するのかによって、人間はその物体の色が赤であるとか、緑であるとか言っています。赤い花は、長い波長の光を反射していますし、緑の葉は、波長が中間くらいの光を反射していることになります。
 ただし、誰もが同じように色を感じているというわけではありません。人によっては、見えにくい色の組み合わせがありますから、色を使って示す場合、配慮が必要です。近頃は、緑の黒板に赤いチョークを使うことは、あまりされなくなりました。多くの人にとっても見えにくい色合いは、一部の人にはまったく見えないことがあるのです。
 さて、私たちは、このキャンプで、「光をさがそう」というテーマを与えられました。でも、現実の光は、目を開けさえすれば、視力に不自由がなければ、すでにそこにあることが分かります。もしも物が見えているならば、そこに物があると知覚しているのであれば、もう光は私たちの目の中に飛び込んできているわけです。わざわざさがす必要などなく、光はつねに、すでにそこにあります。
 ならばどうして、「光をさがそう」などと言わなければならないのでしょうか。


2 闇もある

 そもそも「光をさがそう」なんてばかげている、と思う人がいます。光なんて、いくらでもあるではないか。闇なんて、どこにあるんだ、と。
 たしかに現代は、闇というものの見当たらない生活になっています。二十四時間コンビニが開いているし、深夜放送も賑やかにあるし、街灯が一晩中輝いています。昔は夜歩くとき、月明かりでようやく足下が分かったなどというのは、想像だにできないかもしれません。暗闇をなくそう、なくそう、という方向に文明は発達してきました。闇の中にひそむおばけや幽霊、妖怪は、現実味を帯びることがなくなりました。夜中にオシッコに行くのは、たまらなく怖かった思い出が私にはありますが、今の子どもはそんなこと、怖がりもしません。闇なんて、どこにあるの。闇なんて、見たことがない。そうした中で生きてきています。そんな子どもにとっては、「光をさがそう」などというのは、最初からばかげた誘いです。
 でもほんとうに、闇は、なくなったのでしょうか。
 今から三十年余り前に亡くなりましたが、アメリカにヘレン・ケラーという人がいました。一歳のとき、病気で視力と聴力を失った人です。目も見えず、耳も聞こえず、したがって喋ることもできませんでしたが、サリバン先生という優れた教師と出会い、勉強して、目の見えない人の立場を守るために世界中に大きな影響を与えました。ヘレン・ケラーはその自伝の中で、最初自分が、やさしいことばや、なんでもないちょっとしたしぐさから自然に生まれてくる愛情というものを、ほとんど知ることができなかった、と語っています。「光を、光をください」と、声にならない叫びを発し続けていたといいます。その世界はまったく闇の中だったと思います。
 目の見えない人には、闇がある……簡単に想像がつきます。でも、目に見える人間にさえ、それ以上の闇があることを、知らなければなりません。
 私たちは、光を見失ってしまうことがあります。たとえば私たちは「お先真っ暗」と思うことがあります。「目の前が暗くなる」ともいいます。望みがなく、絶望的になることです。光は、この場合、明るい未来、よいことが起こること、を意味しています。それがないから、望みがなくなるのです。光が、見えなくなってしまったのです。そのような状態が続く心の病気を「鬱病」といいます。物事すべてが悪い方向に考えられていき、ついには自殺してしまうこともあります。未来になんの明るいこともなく、真っ暗闇だと思われて、そこから抜け出せなくなるからです。
 もう一つ、光が見えない状態に、自分では光を見ているつもりでも、実は間違っている、という場合があります。自分では、これがよいと考えて、思いこんでいたことが、実は正しくなかった、ということがあります。これを「目がくらむ」といいます。よいと考えれば、ほしくなるのが当然です。「金に目がくらんで、人を殺した」などという事件もあります。お金が一番大事なものだと勘違いしてしまい、悪いことをしてしまった、ということです。本当は光なんかではないのに、まちがった物を光だと思ってしまったのです。
 さらに人間は、自分から闇をつくることがあります。わざと光を見ないこと、見たくないと行動することもあります。これを「目をふさぐ」といいます。なるべくなら見たくないものは、見なかったことにしようというのです。電車の中で、お年寄りが来ても、寝たふりをしていよう。いじめられている人がクラスにいても、気がつかないふりをしていよう。誰かほかの人がなんとかするだろう。自分は関係がない……いろいろな言い訳をして、ますます目をふさぐようになっていきます。
 ところでヘレン・ケラーは、電話を発明したベルやサリバン先生との出会いにより、闇から光の世界へ、孤独から愛の世界へ入ることができました。それは、サリバン生成の教育により、「愛」について分かってきたからです。生活にはいろいろ不自由もありましたが、一般の人と同じように、美しいもの、楽しいことに触れることはできました。暗闇と沈黙の中にも、無限の美しさを見いだすことができました。ヘレンは、自分の心と他の人の心との間に、目に見えない、触ることのできない、美しい糸が結ばれていることを知りました。大切なものは、目に見えない……それは星の王子様のせりふでもありましたが、ヘレンの場合、その大切なものは、見えていたのです。
 ヘレン・ケラーと親しかった作家のマーク・トウェインは、ヘレンに向かって言いました。「この世の中には、うつろで、どんよりとした、たましいのぬけた、なんにも見えない目というものもある」と。自分には見える、なんでも分かっている、と思いこんでいる人が、いかに多いことか。ほんとうに大切なものが、なにも見えていないのに。
 自分では光を見ている気になっていても、実は闇の中、ということがあるようです。いえ、闇などない、自分には悪いところなどひとつもない、と思いこむこと自体、その人が闇の中に捕まってしまっていることの証拠ではありませんか。


3 光をさがすために

 聖書の中には、目が突然見えるようになった人の話があります。イエスさまに癒された人がたくさんいますが、中でももっとも劇的な変化を遂げた人が、サウロ、後のパウロです。なにせ、「目からうろこが落ちる」経験をしたといいます。それまで目をふさいでいたおおいが取れて、光が見えるようになったのです。
 どうしたら、そんなふうになれるのでしょうか。
 たとえば、私たちもまた、「目が覚める」ことがあります。今まで自分は悪いことをしていた、と気づくこと。自分が悪かった、と認めること。それは、痛みを伴うことかもしれません。自分が損をするかもしれません。人から非難されるかもしれません。それでも、正しいことはこれだ、自分が悪かった、と認めるなら、きっと光が見えるようになることでしょう。
 私たちは、光をさがそう、という思いでこのキャンプに臨みました。どこに光がありましたか。どうすれば、光を見つけることができるのですか。
 私たちは、光をさがしていました。カバンの中かな、机の中かな、押入だったかな。あちこちひっくり返して、さがしまわろうとしていました。
 けれども光は、つねにすでに、そこにあるのでした。わざわざさがす必要などまるでないほどに、いつでもどこにでも、神の愛は満ちあふれているのでした。
 私たちがまずここにいて、それから光はどこかな、とさがすわけではないのです。光はもうそこにあるのです。ただ、それが見えなかったとすれば、それは私たちの側の問題でした。実は闇があるのに、闇と気づかないから、光にも気づかないのでした。闇を知らない、闇に気づかないときには、私たちの目が、そして心が、光に気づかないようになってしまっていたのです。
 イザヤ書50.2はこう言います。「何故、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」
 また、同じイザヤ書59.1-2はこう告げます。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」
 光を見えなくさせていたのは、人間の罪でした。そのために「光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(イザヤ59.9)ということになってしまいました。
 これを変えたのは何でしょう。人間の力ですか。違います。神の、痛い、苦しい、あの十字架の力でした。
 裁判所の公告というものがあります。裁判所や役所に、「○○の件は無効であることを公告する」などという貼り紙がしてあることがあります。あれと同じです。この罪は、十字架という死刑台の上で、今や、「この者の罪は無効である」と宣言されています。尊い御子イエス・キリストの犠牲の上に、私たちの罪は無効とされる恵みを受けたのです。
 十字架は光でした。その光を信じる者は、その光を受けて輝きます。
 <イザヤ書60.1は、高らかに宣言します。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」と。どんなに闇が世界を包んでも、「あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60.2)のです。
 そして「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」(イザヤ書60.19-20)といいます。
 光は、どこにでもあります。でも光は、自分が見えていると思っているほどには、実は見えていません。チョウには見えている、オス・メスの区別が、人間には分からないのです。ヘレン・ケラーに見えていたほどの光が、健常者にも見えていないかもしれません。光が見えそこなっているのは、罪という闇のせいでした。罪は、人を暗闇に閉じこめるものですが、罪に気づくことによって、人は暗闇から光の世界に移る第一歩を踏み出すことができます。
 イエスさまを見上げましょう。いつまでも罪の意識に悩み、暗闇に住み続ける必要はありません。見上げれば、そこにはイエス・キリストの十字架があります。その十字架に、あなたの罪も、一緒に磔にされていることを信じましょう。それが、イエス・キリストがあなたの罪の身代わりに、十字架につけられたという意味です。あなたの罪を赦すため、闇からほんとうの光の世界へ連れて行ってくださるのです。それが「贖った」という意味です。信じた者は、光の中に招き入れられます。光の子とされるのです。


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