日本的寛容について

2004年2月


 血で血を洗うような、ヨーロッパの一部での抗争、あるいは中東のテロや報復、それらに嫌気がさす気持ちは分かります。

 だから、東洋や日本のほうが平和でよい、というふうに考えたくなる人の気持ちが、理解できないわけではありません。でもそれは、手前味噌というか、自分本位の捉え方になります。いかにも日本のことを卑下するかのように悪口を言うのが日本人の特徴だといいますが、それも自分で自分のことを話題にしているだけですから、結局ほかの文化を理解しようとする眼差しとは違うという現象と、構造上類似しているように思えます。

 日本には、血で血を洗うような争いはなかったのでしょうか。

 戦国時代はもとより、武士の世の中は、血生臭い殺し合いの時代だったとも言えます。惨い殺しようは、古典文学の中を見ただけでも明らかでしょう。一族郎党まで見せしめに殺すことや、晒し首のような風習も、日本に堂々と続いていたものです。

 明治政府の参議司法卿江藤新平は、いわゆる征韓論において敗れ、あの『民撰議院設立建白書』を提出した後、佐賀の乱の首謀者と見なされた結果、逃れた薩摩で斬首され、その首は晒し首とされました。1874(明治7)年2月1日のことでした。これが、日本で行われた晒し首の最後であったと言われています。『拷問刑罰史』(名和弓雄・雄山閣出版・1999)には、石抱き責め・海老責め・釣るし責め・釜ゆで・はなそぎなどの刑が紹介されています。江戸時代のキリシタンは、それはそれは惨い拷問や刑を受け続けてきました。雲仙地獄で何をされたかは、現地をお訪ねになればお分かりになることでしょう。

 2003年6月の長崎の少年事件について、「親は市中引き回しで打ち首に」と仰った、鴻池防災担当相の言葉もありました。そういうことが好きなのです。ただし、打ち首の前に引き回しをすることはありえないことはご存知ないらしく、時代劇がお好きな大臣も、「引き回しの上、磔」という常識を学ばれたほうがよろしいかもしれません。

 明治が熟すにつれ、近代国家の道を歩む日本からは、惨い刑罰が消えていきました。皮肉なものです。西洋を模範にした文明開化に沿って、血生臭い刑罰や争いがなくなっていったのですから。

パンダ

 もし仮に、それでも日本には、血で血を洗うような争いはないではないか、と言い張る方がいらっしゃるとしましょう。

 今このときにはそれがないではないか、と。

 血が流れないから残酷ではない、という論理です。しかし、日本には血を流さないリンチがあります。村八分の発想、出る杭は打たれるの精神が、どこを見渡していても取り巻いています。そこに、陰湿な「いじめ」があります。「いじめ」は心を蝕み、人間を殺していきます。

 たしかに、血を流すのは惨いでしょう。では「いじめ」は惨くないのでしょうか。

 血を流す争いの国の宗教は寛容とは正反対で、「いじめ」が蔓延する国の宗教は寛容だというのでしょうか。

パンダ

 聖書が残酷だと言う人がいます。

 たしかに、ヨシュア記の記述をそのままに読むと、かなり惨いことが書いてあります。文字通りにそれを映像にすると、大変なことになりかねません。

 また、そうでなくても、いわゆる「目には目」という聖書のフレーズが、人々に誤解を与えているかもしれません。基本的には、より以上の復讐をしたがる人間の性質に歯止めをかけた意味は大きい、というのが古代史の常識なのですが、今風にみると、同じことを復讐するのは残酷だ、というのです。はたしてそれが被害者の心情として当然であるのかどうかは、最近の事件の被害者のコメントをみるまでもなく、わずかな想像力があればご理解戴けるものと思います。

 聖書はどう語っているか。とやかく解釈を入れませんから、どうぞ聖書に出てくる3カ所の文脈を、ご覧ください。

 人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。(出エジプト記21:22-25)
 人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。(レビ24:19-20)
 不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。(申命記19:16-21)


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