見えてない! (ヨハネ2章)

2002年4月


 ただの傘じゃないか、一本くらいいいだろう。

 ちょっと自転車を借りるだけさ。ほかの場所に置いておくけどね。

 きれいな花の鉢を一つもらっていくくらい、たいしたことはないだろう。

 窃盗は、もはや小さな罪だとしか見られていません。いえ、する方は罪だとも考えていないように思われます。

 しかし、その傘は、持ち主にとって想い出の品、大切な思い入れのある品であるかもしれません。やっとアルバイトを何ヶ月もして買った自転車であるかもしれず、その花は入院した母親の見舞いに持っていこうとしていたものかもしれません。

 物品としてはそこそこも物でも、その価値は、他人には想像できないものがあります。

パンダ

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネによる福音書2:3-4,新共同訳聖書-日本聖書協会)


 有名な「カナの婚礼」の記事です。イエスの母は、婚礼のもてなしのために大切なぶどう酒がなくなったことで慌てています。招かれた立場とはいえ、婚礼の席でぶどう酒を切らしてしまったことは一大事です。それにしても、楽しみのためのぶどう酒があるかないか、それしか見えていなかったのですが、イエスは、同じぶどう酒の事件を目の前にして、別のことが頭にありました。

「わたしの時」とは、もちろんイエスによる救いが全うされる時のことで、具体的には十字架と復活を意味しています。

 ぶどう酒は、最後の晩餐でもあるように、イエスの血を表します。つまり、まだ救いのわざを今ここで成し遂げる場面ではない、というイエスの視点が、この会話からうかがえます。

 同じぶどう酒を見ても、ただそれだけからは見えていないものを、イエスは見ています。

 しかし、ここで水がぶどう酒に変わるという「しるし」つまり奇蹟を見た者がイエスを信じたのであるにしても、それは目に見えた形での現象を不思議と思ったに過ぎません。イエスの見ていたところを見ていたわけではないのです。

パンダ

 続いて過越祭の神殿で、イエスは商売人たちを鞭で追い払う暴挙に出ます。「縄で鞭を作り、羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」たとあります。いわば、イエスが「キレた」のです。これを見た弟子たちは、すっかりびびってしまいます。


弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と描いてあるのを思い出した。(ヨハネによる福音書2:17)


 ユダヤ人ならよく知っている詩篇69篇の一節。これは、主に従おうとするしもべ(ダビデとされています)が、周りの人々に嘲られていくさまを描いています。つまり、神を愛するあまり、自分はいじめられる、という内容です。

 イエスの弟子たちは、主の神殿に対する熱意から暴れているイエスを見て、こんなことをすると、ひどい復讐に遭う、と懸念しているのです。それは、イエスの救いの計画が見えない人間の視野でした。地上の人間の視点からすれば、このようにしか目に映らないのでした。

パンダ

 イエスは、神殿で商売をするな、と叫びました。縁日での夜店を想像してください。あるいは、絵馬を売る神社そのものかもしれません。何らかの神にお願いをしようとする人の心を利用して、自分の利益ばかりを考えてる商売だ、と言われたら……現代では、ちょっと厳しいかなという気がするかもしれません。しかし、日本の神社と、ユダヤの神殿とは、様相を異としました。イエスにしてみれば、神にすがりたい人の心につけこんだ、霊感商法であるとしかいえないわけです。

 なるほど、立派なことを言うものだ。そんな偉そうなことを言うおまえは、いったい何様だというのだ。おまえは、どんなすごいことをすることができるのか。ユダヤ人たちは、イエスに迫りました。


イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。(ヨハネによる福音書2:19-20)


 イエスは、十字架にかかり、三日目に蘇ります。全人類の罪を贖うために自分が苦しみに遭い、死さえ経験した三日後に、ちゃんと栄光のからだで蘇る。イエスはこのことを考えていました。しかし、人間にはそんなことは分かりません。目の前にそびえる神殿しか考えられませんから、それが三日で建て直されるなどとは、信じることができません。

パンダ

 イエスは最初の奇蹟をカナで行いました。その奇蹟を見て、イエスを信じる者も現れました。おそらく、イエスをほめたたえ、ヨイショしたことでしょう。しかしイエスは、そのほめ言葉に「乗る」ことはありませんでした。人間によって権威づけられる必要など、なかったのです。人間の力を借りて、イエスが立派なことをなすわけではありません。神の力は、神の側からの実に一方的な恵みによって与えられるわけで、すべては神の手により、神の意志で、神から降りてくるものです。神のみぞ知るで構わない、それが恵みというものです。


イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。(ヨハネによる福音書2:25)


 ヨハネによる福音書の2章は、このような言葉と共に結ばれています。人間の目には、神の思いなど見えていないのです。同じ現象を目の当たりにしてもなお、大切な意味は理解できず、人間本位の都合のよい意味でしか考えることができない……人間とは、しょせんそのような存在です。水をぶどう酒に変えた奇蹟に熱狂し、あまり目立つと命を狙われると怯え、神殿が三日で建つはずがないと小馬鹿にする、それが人間のせいぜいの見え方だったのです。

 ヨハネによる福音書の2章は、このようなテーマで、ヨハネが編集していたものです。よく、イエスが過越祭に二度来たと理解されていますが、必ずしもそうかどうかは分からない、とたかぱんは考えています。この2章は、宣教の時間的順序による2章であるとは限らず、ヨハネの編集の意図からして、人間には見えていないもの、信仰とは見えないものを信じることであること、をまとめて知らせるために、過越の宮きよめの話を収めた、と考えることもできると思うからです。

パンダ

 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネによる福音書2:22)



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