刑務所での回心

2006年6月


 山口県光市の母子殺害事件で、無期懲役が差し戻され、死刑の可能性が増しました。2006年6月20日の決定は、犯罪史上でも、一つのエポックになりうる判断となったと言われています。

 殺人事件は、そのどれもが惨いものです。暴力的に命が奪われるということにおいて、良いも悪いもありません。殺人者は、自らを神とする過ちを犯したのだ、と私は捉えているのですが、そのことについてはここでは扱いません。

 ただ、その事件を知った人々が抱く感情には、いくばくかの差がある場合があります。報道のされ方にもよるものですから、それが公平かどうかは不明かもしれません。しかし、この殺害事件の場合、犯人が捕まった後にも、被害者家族を愚弄する発言を繰り返したことで、世間の反感を買ったのは確かでしょう。いや、そのことが、この差し戻しに直結しているとも推測されています。

 母親を自殺で失うなど、心理的にも気の毒な部分をもつこの犯人は、18歳になってまもなく、惨い犯行に走りました。この18歳は、まさに野獣でした。

 被害者には何の落ち度もなく、一方的に野獣の手に落ちたのでした。今なお私は涙を禁じ得ません。

 

 詳しいことは、報道などで聞いただけですから、以下の事実認定に誤りがあるかもしれないことを、ご了承ください。

 この犯人も、今や二十代半ばを迎えました。かつての自分が幼すぎたことを自覚しているらしいと聞きます。

 そして画期的なことは、二年ほど前に、信仰をもったということでした。イエス・キリストを心に受け容れたというのです。

 償いなどへの真摯な態度が――少なくとも表面的にであろうと――現れたのは、それからのようです。ですから、今聞こえてくる彼の発言は、かつての野獣とは全く違うように見受けられます。もちろん、それが裁判のための方策であるという見方も、ないわけではありませんが。

 

 ただ、面会した人の中には、がっかりした人もいるようです。「イエスさまがゆるしてくれている」という犯人の言葉は、却って、被害者やその家族に対する償いに向き合っていないような印象を与えたようでもありました。

 教誨師として面会する僧侶は、宗旨は違えど、彼の心の中に変化が見られたことは感じていたようでしたが、一般的には、キリストへの信仰は、逃避のようにも受けとめられたというのは、理解できることです。

 

 刑務所の中で信仰をもつというのは、しばしばあることだそうです。外部の雑多な音をシャットアウトして、真剣に自分と差し向かうそのような環境で、初めて理解されること、それが宗教の考え方であった、ということなのでしょうか。

 

 ゴルゴタの丘で、イエスは3本の十字架の中央に立っていたといわれます。両側には、大強盗バラバではない、二人の死刑囚がいました。そのうち一人が、イエスを、おまえが神なら俺を救えと罵りますが、もう一人は、イエスをただ尊崇します。するとイエスは彼に、今日すでにおまえは救われている、と言葉を与えます。神の言葉は現実そのものですから、この言葉は偉大なものでした。

 

 ルカによる福音書より。
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 キリストを信じたがゆえに、かの殺害犯人を死刑にしないように、と言うことは、私にはできません。

 刑務所で信仰をもった人の多くが、このルカ伝の箇所に心を捉えられるように、彼もまた、ここを読まなかったはずがありません。この、イエスの右で十字架につけられた犯罪者のように、彼もまた、死刑に処せられることになるのかもしれません。

 

 しかし、私たちも、彼と別世界にいるわけではありません。自身、罪ある者としてここにおり、ただ神に赦されたという自分の信じることによってのみ、なんとか立ち上がっているような存在です。そして、やがて命を閉じることになる点では、私たちすべてが、死刑囚であるようなものです。それが人の手によるかどうか、の違いだけで。

 光あるうちに、光の中を歩め、ともイエスは言いました。まだ生きているうちに、神を信ぜよ、という意味にもとれます。

 かの事件は、山口県の光という町で起きました。

 今度は、私たちが教えられる番なのかもしれません。



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