クリスマスと思いこみ

2010年12月


「信じる」ことと、「思いこむ」こととは違います。
 ある情報がある。それを信頼するというのは、相手を中心とすることでありましょう。
 ある情報がある。それを思いこむというのは、自分が中心であることになるでしょう。
 
 信じるとき、信じる・信じないという選択は確かに自分の側にあるけれども、一旦信じるとしたときに、それは相手の存在や相手の判断を尊重する選択をしたということになり、自分ではない他者に一切を依存することになるのです。他者がそうであるのか・ないのか、そこにおいて、そうであるのだと他者を認めることなのです。
 しかし、思いこむというのは、相手がどうであるかということには関係がないありません。相手がどうであろうと、自分の側で、そうだという判断を下し、その判断を尊重しているわけです。つまり、これは自分中心の行為なのです。
 
 キリスト教信仰について、その復活が当初激しく問題になったかのようです。そもそもユダヤ教内部でも、サドカイ派は復活を認めなかった、とあります。神殿祭儀が重要である教義からすれば、復活云々に救いがあるという観点はもてなかったことでしょう。喩えは適切でないかもしれませんが、仏教だといわゆる上座部仏教のように、古来の伝統的な部分を守っていった側だと受け取ることも可能でしょう。もちろん、律法とは言いませんが戒律を重視するというのは、上座部の主眼ですから、ファリサイ派の方でもその正確が強いのですけれども、ファリサイ派はどちらかというと大衆的であり、民衆に受け容れられやすい要素を持ち合わせていた点で、大乗仏教との比較がある点で可能であると思われます。すなわち、ファリサイ派は、伝統的形式を生活感覚で再編成する考えをよしとしたのです。復活というのは、大衆に救済を示すためにも的確な希望であったといえるでしょう。
 
 しかし、復活は、ユダヤ人のファリサイ派の教えを知る人々には理解できましたが、ギリシア人には難しかったことでしょう。魂の不死を考える余地はあったものの、復活という考えをギリシア系の思想では持ち合わせていませんでした。たとえユダヤ人が離散あるいは分散してギリシア地域に住み合わせていたに過ぎない教会であったとしても、ギリシア文化の土地にあっては、復活が信じられないという事態は当然ありえたはずです。
 このとき、どちらかと言えば信仰者は、復活を思いこむというレベルであったというよりも、復活という事象そのものを見つめ、それの存否について、復活はある、という信仰を強くもつものであったと思われます。
 パウロが復活論を展開していますが、あれもコリント教会相手であり、ギリシア文化の土地へ向けて宛てられた書簡でのことでした。キリストの復活は、私たちの側の思いこみなどではなく、その復活の有りや無しやという点で問題になったのであり、だからそれを有りと見なす人は、信仰をもつということができるわけです。
 
 他方、クリスマス記事はどうでしょうか。この場合、信じなければならないのは、他の書簡などでも繰り返されている通り、神が人となって来たという点でしょう。いわゆる受肉論ですが、この点は確かに信仰という角度からしても譲れないことです。
 しかし、その生誕の福音書記事はどうでしょうか。いわゆるクリスマス物語です。
 この物語そのものが信仰の対象だと言えるでしょうか。ここに、やや揺らぎのようなものがありうるかと思います。つまり、クリスマス物語においては、どこか思いこみが入り込む余地があるのではないか、と。
 
 特に、中世から近世に入る中で、西欧人たちがこの記事に重ねてもった多くのイメージが、クリスマスに彩りを添えると同時に、思いこみを含ませる可能性を高くしていったことは否めません。元来ローマの太陽神関係で始められたなどと言われるクリスマスの祝祭は、ケルトの習慣や北欧、あるいはドイツやフランスなどの土着の習慣や神話などを次々と盛り込み重ねていって、クリスマス独特の祭りを幅広く広げていくのでした。
 それは、果たして「信じる」ことだったのでしょうか。多分に「思いこむ」営みの展開していった結果であった面が強くないでしょうか。
 
 ツリーやリース、プレゼントといった要素が聖書にないことは当然のことのように知れていますが、教会でも欠かすことがないようになっています。それはもう分かっていることだ、と笑って返事をしてくるかもしれません。
 では、博士は、三人だったでしょうか。聖書にそれは書かれていません。黄金・乳香・没薬という3つの贈り物があった故に、三人だろうと決めているに過ぎません。そもそもこの「博士」という訳語が伝えるものが適切であるのかも分かりません。もちろん原語からして今のマジシャン、魔術師なのだ、という説明も時代錯誤も甚だしいことになりますし、天文学者だと言っても、今の社会でのその人々とはまた意味が違うことになりましょう。私たちは、訳語一つからでも、いくらでも「思いこむ」ことができるのです。
 
 羊飼いは、イエスが生まれたその日に訪れたでしょうか。いわゆる聖誕劇ではしばしばそうします。そうせざるをえないのでしょうが、私たちは、羊飼いたちと博士たちとが鉢合わせをした様子をプレゼピオと称する人形で表します。そもそもマタイ伝とルカ伝と違う福音書の証言が、一緒に起こったとすることが適切かどうかも考え合わされていません。
 古くは2世紀にすでに始まったとも言われるような、四つの福音書を一つにまとめてイエスの生涯を一本化しようとする試みが、潜在的に私たちの中にも染みついているのかもしれません。
 
 西欧から入ってきた近代のプロテスタント信仰。カトリックも大同小異なのですが、私たちはクリスマス物語の理解を、一度疑ってかからなければなりません。受肉を疑うのではありません。その脚色されたストーリーを、です。根拠があることについてはそれなりによろしいとしても、「思いこむ」ことから広がっている「物語」は、「信じる」対象ではないからです。
 
 果たして、宿屋の主人は意地悪だったのでしょうか。ルカの福音書をいくら読んでも、そうは書いてありません。アブラハムの時代から、旅人を温かく迎え、いわば命に替えても旅人を守るほどの気概を持っていたイスラエルの人々が、150kmほどもの旅を、ローマ皇帝の一存で労苦の上やってきた妊婦を、手厚く扱わないはずが、あるでしょうか。聖書はそのようには書いていませんが、それは、わざわざ書かなくても、ユダヤの常識であるからだとは考えられないでしょうか。
 布にくるまっていたというのが、無造作にイモムシのような扱いを受けたという意味だとしたら、ただの虐待です。そもそも産着を着せるという行為を、そのように呼ぶという通常の言語の使い方を考慮できないでしょうか。「袖の下」は、胸から出してはいけないのでしょうか。
 ロマンチックにさえ見える羊飼いたちが、当時の社会環境で、どんなに辛酸を舐め、軽蔑された日々に置かれていたか、もよく研究されています。生まれたイエスは、この羊飼いに会う必要がありました。また、偉い学者たちにも会わなければなりませんでした。それらを成立させるためには、不思議な摂理が必要だったと思われます。まず、ダビデの家系のヨセフたちが故郷で扱われる待遇と、この最下層の羊飼いたちが出会える場所でした。さぞや暖かだったであろう飼葉おけの中のイエスは、客間に通されたのでは、羊飼いたちとは会えなかったことでしょう。
 
 こうした疑問の数々は、当時の住居環境を理解することで、一つの理解の中にきれいに収まっていくようにも見えます。もちろん、まだまだ不思議なことはありますが、少なくとも「思いこむ」ことで私たちの側の常識や理屈を優先させるというのではなく、事実の置かれた状況を尊重することで、聖書の記者が伝えようとしたことが、より原意に近く理解できるように思われてなりません。
 
 私たちは、自分の信仰をもう一度見つめてみましょう。それは「信じる」ことでしょうか。それとも、「思いこむ」ことに終始していないでしょうか。
 それを見分ける一つの試金石があります。それは、その主体たる自分自身です。自分は罪ありとしているでしょうか。それとも、自分は正しいと揺るがないでいるでしょうか。どちらがどちらであるか、それはもう皆さまはお分かりの通りです。



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