ちょっとだけ

2005年12月

 以前、腰に水筒を提げている若者が現れました。そんなにしょっちゅう水を飲むのかという目で見られていましたが、その後、500mlのペットボトルが販売されるようになり、当たり前の風景となりました。

 今や、公の会議の場でも、各席にペットボトルのお茶が置かれ、各自が好きなときにお茶を飲めるようになっています。

 大人がそんなふうになってしまったものだから、若者は、また違ったものを持って歩くようになりました。最近は、500mlの紙パック飲料がやけに目立ちます。中央にストローを差しているのもよく見ます。

 電車に立って揺られている若者の手に、紙パック。見たこと、ありませんか。東京あたりで見られないとすれば、それは都会のルールが行き届いているからでしょうね。福岡は、多いですよ。電車の中で床に座ってケータイ電話を話すという、殆どダサイ(死語?)ことも、こちらでは珍しくありません。

パンダ

 大きく道を踏み外すことはためらっても、「ちょっとだけ」ルール違反をやってみたい気分って、人にはあるかもしれません。ばか正直にルールに従っていたら、自分らしくない――そう思うかどうかは別として、ルールからほんの「ちょっとだけ」外れてみて、世間の反応をみます。

 それで目くじらを立てられることはない、という計算もあります。ほんのちょっとのことで熱くなる方が格好悪いことを知っており、それを指摘するのです。

 自転車の二人乗りを咎められたら、「いいじゃん」と警告書もその場で捨てて、また二人乗りしていく若い女性がいつかテレビに映し出されていましたが、注意したほうが「バーカ」なんでしょうね。

パンダ

 ところで電車での紙パックが、何のルール違反かって?

 それさえも、もはや説明しなければならないようになってきたというなら、悲しいことです。いえ、世の中、そういうことが、多すぎます。そうして、その「ちょっと」が積み重なって、大きな悪に感覚しなくなっていくのが、世の常なのでしょう。大きな事件は、たいていそうではないでしょうか。小さな踏み外しが、咎められなかったがために、エスカレートしていく、という……。

 例外なのが、いきなり自分は大罪を犯すぞというタイプ。少年犯罪の中には、この室全というタイプがしばしばあり、これを、「理解できない」と大人が評しますが、逆に言えば、「ちょっとずつ」ルールから抜け出て大きな悪に陥っていくことは、理解できる了解済みのパターンなのかもしれません。

パンダ

 聖書の中に、神の審きが、実に厳しく成し遂げられることがあります。何もそんなことで神さま、怒らなくても、という印象をもってしまうことが。

 かと思えば、こんなにひどいことをしたのに、神さま、甘くありませんか、と言いたくなるときもあります。

 後者の場合、それが自分の姿です、とよく説教で告げられます。あなたはこんなにも甘く見逃されてきたのですよ、と。

 前者の場合、神の審きはきちんと行われるのです、という意味でよく持ち出されます。

 どちらにせよ、人間は、「ちょっとだけ」足を踏み外すことから、大きなところへ行ってしまう傾向をもっています。神さまは、一方で、その「ちょっとだけ」を時に厳しく罰し、他方で、大きく踏み外した者を、立ち帰らせる慈しみももっていらっしゃるのかもしれません。

 そんな合理的な理解が万能ではないことも、承知の上ですが、要するに、「ちょっとだけ」なら自ら許してしまうという、人間の性向を考えてみたかったものでした。


Takapan
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