火の鳥異形編とカインの末裔

2004年5月

 2004年春、NHKテレビで手塚治虫の『火の鳥』がアニメ化され、美しい映像となって火の鳥が画面に蘇りました。放送の制約や放映時間のため、原作通りというわけではなく、適度にカットしたりアレンジしたりしているところが見られるのですが、それもある意味で楽しみであり、見所と言えるのかもしれません。

 ご存知の通り『火の鳥』は長短さまざまな幾つものエピソードが古代から悠久にわたって連なってできている作品ですが、その中の短い作品の一つに「異形編」というものがあります。今回のテレビ放映では、幾つかのエピソードを選んで作品化してあったのですが、この「異形編」がその中に選ばれていました。短いので30分一回で完結したものでした。

 ストーリーはこうです。

パンダ

 京からみて琵琶湖の彼方にある蓬莱寺の八百比丘尼は、霊験あらたかな尼僧である。慕い訪ねる者を、不思議な光る羽で癒し続けている。対岸の領主八儀家正は、人を人とも思わぬ残酷さがあった。その娘は名を左近介といい、男として育てられてきた。父が病の床にあったとき、八百比丘尼に治してもらうべく招いたが、羽を取りに戻る比丘尼を、左近介は追いかけた。父が憎い左近介は、この病を癒してはならぬと考え、比丘尼を斬る。ところが、どうにも蓬莱寺から脱出できなくなる。癒しを求めて訪れる人々を知り、咄嗟に比丘尼の恰好をして、ついに自分が光る羽で人々を癒す羽目になる。不思議なことに、昔起こったはずの応仁の乱に遭遇し、この空間では時間が逆行してしまったことが分かる。そうして12年後、比丘尼となった左近介は、領主に左近介という世継ぎが産まれたことを知る。比丘尼は、因果応報を悟る。18年後に、自分は自分に斬られて死ぬのである。夢枕に現れた火の鳥は、人を殺した報いとして、未来永劫殺され続けなければならないと告げる。30年毎に、自分自身を入れ換えながら。その輪廻を逃れるには、不幸な人々を救い続けるしかないという。こうして、比丘尼は、人間ばかりでなく、蓬莱寺を訪ねて、霊の世界で闘いをする中で傷ついた妖怪たちをも救う。こうして功徳を続けるうち、ついにその日がきた。領主の病のため一度呼ばれ、その日だけ寺を降りることができるのだが、光る羽――もちろん火の鳥の羽である――を取りに戻る比丘尼を、左近介が追いかけてきていた。こうして、物語の最初のシーンと同じことが繰り返される。

パンダ

 1981年の作品です。この妖怪たちは、後に太陽編の中で重要な役割を果たすことになるのですが、手塚ロマンが太陽編では遺憾なく発揮されているように思えます。その中で、この「異形編」は、ちょっと異質な作品です。壮大なロマンが影を潜め、閉鎖された時間と空間の中で、左近介と供の可平(ストーリーの説明では省略)だけが話の展開に関わります。そして、「火の鳥」がもつ核心の部分である、永遠の命や人生の意義といったものとは関係ないものが全編を覆っているようにさえ見られます。

 私がこの「異形編」をテレビで見た日、実は教会で(そして私は教会学校で)、「カインとアベル」の話を聞き、子どもたちに説明していました。その後に見たこの「異形編」が、ところどころオーバーラップしたり離れたりしながら感じられたということで、感慨深い思いがしたわけです。

 創世記の「カインとアベル」の物語というのは、次のようなものでした。

パンダ

 アダムとエバの2人の息子たちがカインとアベル。兄カインは農業、弟アベルは牧畜業を始めた。2人はある時期、主へのささげものを持ってくるが、神は弟アベルのささげものをよしとした。カインはひどく怒り、顔を伏せる。主はそんなカインに声をかける。正しいことをしていないと罪に襲われる。それを制御できるか、と。カインはそんな主に返事もしないで、弟を野に誘い出す。そして撲殺するのである。主が再びカインに問う。「弟アベルはどこにいるのか」と。カインは、自分は弟の番人などではないと嘯く。主はもちろんすべてをご存知で、カインに、おまえは罪のゆえ作物に苦労し、地上をさすらうと告げる。カインはこの期に及んで、さすらえば誰かに殺されると怯える。そこで主は、おまえにはしるしを付け、誰にも殺されないようにしてやるという。カインは主の前を去って行く。

パンダ

 かくして人類は皆、このカインの末裔であるということで、日本でも文学作品が生まれました。カインをモデルとしたような事件は日常的に耳に聞くものですし、昨今の少年犯罪の中にも、似ている面があるように窺えるものが見つかるように思えます。

 当地において、農業は牧畜業よりも安定した生活ができると考えられていました。2人のささげものがどのようなものであったかは、聖書からは分かりません。いろいろ推測もなされていますが、決めつけないほうがよいかと思います。神は生活の苦しい者の精一杯のささげものを喜ばれたのかもしれませんが。

 カインは、主に声をかけられてもそれを無視します。そう、たとえば子どもが、親の説教や諭しに対して、無言で抵抗するという場面が想像されます。それは黙って聞いているというよりも、黙殺するためであることもあるわけです。このカインの場合がそうでした。カインは、返事一つしなかったのです。

 そして、殺人。――では、殺人者は直ちに罰されたり、殺されたりするのか。神は、不思議なことをしています。カインが決して復讐されないように配慮するのです。たしかに幸福感が与えられるようなことはありません。しかし、何らかの「しるし」を付けて、誰からも殺されないように、カインを守るのです。カインから子孫が出て、そこからすべての人間が広がっていくことができるように。(このカインの妻とは誰か、ということはあまり詮索しないでおきましょう。それを突っこんで勝ち誇った気持ちになったところで、何の益にもなりませんし、理由を付けて説明を施して弁神論的に振る舞おうとするのも滑稽なことになりかねません。)

パンダ

 殺人をしてその罰を超越者から受けるという点では、「異形編」も「カイン」も同じです。しかし、八百比丘尼は、犯した罪のために永劫の輪廻の中に留まるように置かれました。火の鳥は必ず何らかの仕方で神の役割を果たします。手塚自身はそう呼びはしませんが。

 カインは、一つの人生を全うするように置かれ、しかも容易に復讐されないように守りを受けました。

 どちらが良いとか優れているとかいうのではありません。それぞれが私たちに何を教えるかということです。比丘尼は、その輪廻から抜け出るために善行を続けなければなりません。カインは、何をするという義務は与えられていないようです。さすらう中で、カインは自分の一生を見つけ、刻んでいかなければならないのです。

 もちろん、前者は仏教的、カルマ的であるし、後者はユダヤ的でありましょう。それで、私たちの人生により近い方を選ぶとすれば、どちらになりましょうか。

 私は殺人など犯していないからこの物語とは関係ない、と思い込んでいる人は、最初からこの選択肢の中にはありません。そのあまりに能天気な心は、自分を客観視できないならばそんなものかもしれませんが、その方を責めるつもりはありません。

 私自身は、当然かもしれませんが、後者です。皆さんはどう思われるでしょうか。


Takapan
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